2012年4月9日月曜日

自己流お能の見方

昨日、林宗一郎さんの独立披露公演の「道成寺」を観てきました。 
道成寺までに、高砂・熊野の舞囃子や、仕舞の羽衣や国栖などがあったのですが、 
それを見ている頃から、「ん~、今日はさすが出演者の気合いが違う、惹きこまれる」 
という実感があったのですが(御宗家も出てらしたし)、 

道成寺、壮絶に良かった!! 

です。 
以下乱文ですが、感想を…。 
あくまで私の偏った見方ですので、「ここが違う!!」などとご指摘はご容赦ください〜。
精進いたします…。


道成寺って、シテである女の人がいても立っても居られなくて道成寺に来てしまい、 
鐘まで辿り着いたはいいものの、まだ迷っていて、それが決意に変わり…。と、 
そういう心理描写が凄まじい。心の葛藤がびりびり伝わってくる。 
あの乱拍子は、迷いや逡巡を経て、心を決める時間だ。 
最初鐘を見込んだあと、微笑んでいるようにすら見えるシテが、乱拍子の中で、 
どんどん悲しそうに見えてくる。もう後戻りは出来ない、やるしかない、 
となればなるほど哀しくも固い決意をもっていくのが、もう切なくって! 
乱拍子は小鼓方とシテの闘いみたいだけど、囃子もシテの心理を表してるんだな、と 
思った。心の中の嵐だ。 
こんなことをしても誰も幸せにならない事なんて百も承知で、それでも鐘に近づき 
鐘を落とさずにはいられない、そういう思い。 
憎いだけじゃなくて、恋しいんだろう、鐘のことが。恋した人と重なるんだろう。 


道成寺に惹かれる一つの要因として、シテが物語の引き金をひく、というところ。 
シテが道成寺に来なければ事件は起こらなかったし、鐘を落とさなければ、 
追い返されることもなかった。でも、迷いながらも全部自分で決めていく。 
その葛藤が好き。 
なんと人間らしい。なんと激しい。 
アラサー、アラフォーといわれる女性は、もの凄くシンパシーを感じるんじゃないか 
と思うんだけどなぁ。 
誰しも、こんな強い恋をしたことがあるでしょう、一生に一度は。 


再び鐘が上がって蛇体として出てきたシテは、醜くて、哀しくて、年老いた惨めな 
姿だ。それでも抗おうとする、尊厳のあり方が、ひたすら切ない。 
祈り伏されて、祈り伏されて、それでも抗う姿には、 
住僧にむけた「あなたには分からないでしょう!」という叫びをみた。 
分からないよね~。福王和幸さんの住僧はとても美しく、沈着かつ、ストイックで 
恋なんてした事がないように見える。この人に、この千々に乱れた思いは 
分からんだろう!というその対比がまた更に泣ける。 
歪んでるけど、本当にひたむきな思いの現れ方。 



やっている方はすごい集中力。そして、道成寺は見所で見ている私たちも一緒に 
「その場を創りあげる」という空気をすごく感じる。 
命の保証もされない危険な演目だし、観ている方も皆が「見守るぞ!」「見てるぞ!」 
という気持ちがムンムン出してる。 
さらに今回のこの共感。 
全力で観たので、泣きすぎで頭痛、では収まらず、足袋にもぐっしょり汗をかいた。 




と、感想をつらつら書きましたが、能及び道成寺のお約束や定説などをぶっ飛ばして 
書いているので、正当な見解とかなり違うところがあります。どうぞご了承ください。 
素敵な解説は、こちら。 
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_013.html 

0 件のコメント:

コメントを投稿